![]() と、アフリカに来る前によく聞いた。 日本で生活していると“人が亡くなる”という事はかなり特別な事だが、アフリカの村では日常的に人が亡くなる。 ダカワ村は小さな村だ。皆顔見知りで、親戚同士のようなものだ。多くの村人は、村人同士で結婚するため、「あの人の嫁は誰々の娘で、彼の義理の妹」というように、親類関係がとても発達している。 先週は村で4つのお葬式があった。朝から農場で作業をしていると、農民メンバーの誰かの親や兄弟が亡くなると、村から使者が自転車で来、「さっき○×が亡くなった」と報告する。家族が多いため、それだけ親族が亡くなる機会も多くなる。アフリカは“相互扶助”の文化だといわれる。困った時に助け合う文化だ。だから、誰かの死亡報告があると、作業はその場で中断され、皆で村へ戻り葬式の準備をするのだ。アフリカの村ではまだ冠婚葬祭を重んじる風潮が残っている。村だけでなく、政府レベルでもそうだ。隊員だった時は政府の管轄下で活動をしていた。会議に呼ばれて行くと、“今日は誰々の親が亡くなって皆で葬式に行く。会議は中止”、なんてのは1度や2度じゃなかった。タンザニアでは建国の父と言われる故ニェレレ大統領がなくなった時は国民は1ヶ月喪に服し、その間政府関係の仕事は何も動かなかったそうだし、去年の大統領選の直前に政府の用人が急死したため、選挙は1カ月延期になった。それは、その人の死の悲しみを国民の皆で分かち合いましょう、という意味なのだ。 今回亡くなった人は、親しい農民のおじさんの親だった。私も葬式に出席させてもらう事にした。村人のほとんどがイスラム教徒であるため、イスラム式の葬儀が進められる。死んだ人の体がまだ温かいうちに土に埋める、それがイスラムのやり方だそうだ。人が亡くなれば、葬儀はその日に出されることなる。 葬式に向かう途中にも沢山の知り合いに会った。皆も葬式に行くところだった。葬式には村中の人が参列する。村人たちは高い香典を出すわけでもないが、100シルや200シルのカンパをし、墓を掘ったり、食事の準備をしたりと出来るかぎりの手助けをする。 葬式に着くと、男性と女性は別々の場所へ座らされる。男性は丸いイスラム帽を被り、女性はカンガ(腰巻布)を腰に巻き、もう1枚で頭をすっぽり覆う。それが葬式の正装だ。 女性陣に紛れ、私も外に敷かれたゴザに腰を下ろした。何人かの女性達が集まり、歌を歌っている。“私達を置いて逝かないでくれ、ひとりで逝ってしまわないでくれ”、という内容の歌だそうだ。イスラムのレクイエムだ。 死体は土葬される。墓を掘っていた男性達が戻ってきた。すると、イスラムの司教さんがアラビア語で訓示を述べる。人々はそれをしばらく黙って聞く。いよいよ出棺だ。板だけで作られた粗末な棺おけを身内の男性が中心に運んで埋めるのだ。すると、突然棺おけにすがりつき、大きな声で泣き出す女性がいる。「お父さん、お父さん、逝かないで!!」と泣きわめく。つられて他の女性達も泣き崩れる。アフリカ人は感情を心の中にしまっておかない。悲しい時は、周りなど気にせずに泣きわめく。別の人が彼女らをなだめる。親族の悲しみを分かち合い、私達が付いているから、と元気づける。 お棺は埋められると、男性達は戻ってくる。最後に親類達が用意した“ウジ”と呼ばれるトウモロコシ粉のおかゆを皆で飲んで、葬式は終わる。 村では、1日に幾つか葬式がある時は、村中の店が閉められ、皆、喪に服す。葬式や結婚式などの冠婚葬祭は家族が中心になって手作りの精一杯の式を出す。近所の人達も協力する。そこには心の通じ合う人間関係ができあがる。 その週はそんな葬式が4回あった。そして、驚くことに昨日は1日で4人の葬式があった。人口が4000人の小さな村で1日に4人も亡くなったのだ。それ程、村では人の死が日常的で、直に隣合わせのものなのだ。 マラウイでの2年間にも沢山の知り合いが亡くなった。任期が終り、一年後に里戻りをすると、家のウオッチマンをしてくれていた人と、一番親しかった農民のおじさんが亡くなっていた。隊員当時、ウオッチマンとは毎日顔を合わせ、色々な世間話をした。亡くなった農民のおじさんは、とても農業に熱心な人で、いつも一緒に農作業をして多くの時間を過ごした。私の活動の最後の日、10数キロ離れた村から歩いて別れを言いに来てくれた。「必ずまた来るから」、と握手をしたおじさんの手の皮の厚さと暖かい感触は掌に残っているのに。 残された家族に会いに行き、奥さんに亡くなった理由を尋ねると、 「半年前から体調が悪くなり、何も食べられなくなった。そのうちやせ細って死んでしまった。病院に連れて行く金もなかった。一体何が原因かも分からずに、この家で死んでいったよ」と彼女は言った。彼にはまだ小さい沢山の子供がいる。子供達は一体どんな気持ちで父親の息をひきとる姿を見つめていたのだろうかと考えると、涙が出た。奥さんは体が弱く、農作業はできない。おじさんがひとりで家族を支えていたのだ。これから子供達はどうやって生きていくのだろう。 アフリカの静かな村で自然と共に暮らす人達。その毎日の中で亡くなる人達を見ながらきっと日本だったら治っただろうに、と何度思った事だろうか。彼らは人の“死”は受け入れざるおえないものとし、自然の摂理に逆らうことなく生きている。 # by fumika222 | 2006-09-16 08:11
「最近、ダカワに新しい酒が登場した。とってもおいしいから飲みに行かないか?」
と誘われた。 ダカワで最もポピュラーな酒は、ヤシ酒だ。しかし、ダカワではヤシ酒を作っていない。ダカワで飲まれるヤシ酒は約20km離れた隣村で作られたものだ。隣村はヤシの木が沢山植わっていて、農業も盛んだ。しかし、現金収入の手段がない。そのため、村人達は作ったヤシ酒を他の地域で売り、現金収入の頼りにしている。 毎朝、自転車の後ろにヤシ酒を満タンにした20Lのタンクを2つも3つも積んで売りにくる若者達の姿をよく見る。因みに、ヤシ酒はヤシの実から作るのではなく、ヤシの樹液から作られる。ヤシの木に切り込みを入れ、そこに細長い容器をくくり付けておく。樹液が一杯になったらしばらく放置しておくと、暑い気候とほのかに含まれる糖分が勝手に発酵して酒になると言う訳だ。そうして出来た白色のヤシ酒は、少しクセある匂いはするが、味はさわやかだ。アルコール度も低く、いくらでも飲めてしまう。安くておいしい。350mlのコーラのビン1本で100シリング(約10円)、庶民の懐に合う価格だ。 誘ってくれた友人と、夕方約束をし、新しい酒を飲みに連れて行ってもらった。着いたところは普通の民家だった。 「カリブカリブ(いらっしゃい)」と、言って出てきたおネエちゃんは、うちの農民グループのメンバーだった。 「あれー?何してるの?」と尋ねると、彼女の家は副業でローカルの酒を造っているという。 庭先にイスが置いてあり、腰をかけるように勧められる。 早速、新しい酒を味見させてもらう。店主のおばちゃんがようこそようこそ、と歓迎してくれ、その酒をプラスチックの容器にナミナミと注いでからひと口飲んだ。 アフリカのローカル酒屋での作法、酒は“回し飲み”だ。誰かが酒を注文する。すると、店主はコップに酒を注ぐと、まず一口飲む。これは、“私の作った酒に毒は入って入ませんよ”という意味なのだ。アフリカ人社会は、嫉みや妬みが複雑に絡んでいるとも言われる。人から恨みを買ったり、社会で成功したりした人が毒を盛られて殺されてしまうことはよくあるからだ。次に客が一口のみ、隣に回してゆく。1つのコップが終わると別の人がまた注文する。こうしておしゃべりをしながら酒を回し飲みし、夜は更けてゆく。 その酒は、薄い赤色の液体だ。ひと口飲んでみると甘く、ほのかに発酵臭が残る。ジュースの様でおいしい。これはどんどん飲めてしまいそうだ。一体、原料は何なのかと尋ねると、持ってきたものは“チョーヤ”だった。チョーヤはハイビスカスの一種だ。熱帯地方で、鮮やかな大振りの花を咲かせるハイビスカスは、アオイ科の植物だ。世界の熱帯・亜熱帯に約200種も分布する。チョーヤはその原種に近いものだろう。乾燥地を好む為、タンザニアではドドマで栽培したり、自生したりしている。ドドマの人々はチョーヤの花のツボミを収穫し、乾燥させたものを水出しにして飲む。きれいなピンク色の液体は、少し酸味がある。鉄分を含み、特に貧血に効くとして薬用的に飲まれている。近頃、ダカワでもドドマ出身の人がチョーヤを栽培し始めたらしい。それと同時にドドマの酒の文化がダカワにも入ってきたのだ。チョーヤの酒はダカワ村人に大人気だ。友人いわく、前日のみに来た時は売り切れてしまっていたので、今回はデポジットを置いてとってもらったそうだ。 「だけどね」と店主のおばちゃんは言う。「これはダカワの酒じゃないの。ヤシ酒もそう。ダカワに居るなら、ダカワの酒を飲みなさい」 と、別のバケツを持ってきた。中にはドロドロとした白色とも言い難い液体が入っている。おばちゃんはそれをコップにナミナミと注ぐと、それを一気に飲み干し、 「プハーッ」と一息。カッコいい。 「この酒はダカワの酒、ダカワで採れたトウモロコシ、モロコシ、アワなどの雑穀で作られた、ダカワの村人が昔から飲んでいる酒よ。ダカワに住んでいるなら、この酒を飲まなくては」 と、小汚いプラスチックのコップにそれを注いでくれた。 色々な雑穀を混ぜて発酵させた酒だ。味は甘みがあり、発酵しているので酸っぱい。重湯のようで、お腹にたまる。たまに雑穀のカスが口に入ってきて、口当たりはお世辞にも良いとは言えない。アルコール度も低く、なかなか酔えるしろものではない。それでも、次から次へとやって来る客達は皆、ダカワ酒目当てだ。この酒はゴクゴク飲めるものではなく、ひと口ずつ噛みしめながらゆっくりと飲むものなのだ。 店主のおばちゃんは良いテンポで飲んでいる。かなり酔っ払っているようだ。夜空の下、馴染みの客たちがおしゃべりに興じる。自分の隣に座っている人の顔もよく分からない。薄暗いランプの光が肌の黒い彼らの目玉と歯だけを白く浮かび上がらせる、 おばちゃんは次々と話し出した。自分の家族のこと、ダカワの昔のこと、そして師匠のこと。彼女は 師匠が一番初めにダカワで活動を始めた時から、師匠と共に米づくりをしてきた。大干ばつの年に多くの農民が助けられたこと、師匠の農法によって米の収量が上がったこと、ある日師匠の家で料理をし、皆で食べたこと等々。そして彼女は、「師匠に出会えてよかった。彼のお陰で多くの貧困農民が生きる希望をもつ事ができた。これからも師匠について米づくりを続けてゆきたい」と話した。 星空の下で皆とおしゃべりをしながらひとつの酒を回し飲みする。小さな村では皆、顔見知りで家族のようなもんだ。そこでくつろぎ、冗談を言い合い、酒を飲み、談笑し、その日の疲れを癒す。そんなローカルの酒屋は皆が戻ってくる家だ。ふと見上げると、満天の星空が広がっていた。月が出るのが遅い今日は、南十字星がくっきりと見えた。何度も回ってくる酒のせいで少し酔っ払ってしまった。 記憶がなくなる前に、真っ暗な道を村人について千鳥足で家にもどった。 # by fumika222 | 2006-09-10 08:03
タンザニアで砂漠化が進んでいるところがあると聞いた事がある。
タンザニアの首都であるドドマは国の中心に位置する。そこから西に、ビクトリア湖までは砂漠化がすすんでいるそうだ。 ムワンザからモロゴロに陸路で戻るには3ルートある。 汽車かバス。汽車はスケジュールが安定していないからやめ、バスはセレンゲティ国立公園を突っ切る北周りと、その砂漠化地帯を通る南周りがある。北周りは道路の状態も良い為、ムワンザからダルエスに向かうバスのほとんどが北周りだ。大手のバス会社に南周りのチケットを買いに行くと、そのルートにバスは通っていないと言う。いくら砂漠化しているとはいえ、ムワンザから首都のドドマまではシニャンガ、シンギダと、2つの大きな町がある。人は住んでいるのだ。バスが無いわけない。結局、4つ目のバス会社が南周りのバスを運行していると言う。ようやくチケットを入手した。出発は翌朝だ。 翌日、まだ暗闇の中、バスは時間通り朝6時に出発。ダルエスより約1000キロ西に位置するムワンザの日の出は遅い。しばらく走るとようやく自分がどういうところにいるのかが見えてきた。 それにしても、道はひどいなんてものじゃない。上がったり下がったりの繰り返しで、まるでジェットコースターに乗っているようだ。旅行書のロンリープラネットでは“the rugged southwestern route(デコボコだらけの道)”と形容され、できれば避けたほうがよい、と記されていた。座席が丁度後部タイヤの上だった為、バンプの度に何度もお尻が飛び上がる。その衝撃に合わせ、乗客たちも「ワア!」とか、「オオッ」と喚声を上げる。そのうち、バスの窓が落ちてきた。幸い窓はガラスではなくプラスチックだった為、割れることは無かったが、きっとよく窓が落ちるからプラスチックをはめているのだろう。後ろの座席の乗客たちは前方に非難し、シートの中のスプリングが飛び出し、むちゃくちゃになっている。乗客は全員バスのどこかしらに必死にしがみつき、上の網棚に頭を打ちそうになる度に隣の女の子と目を合わせて笑った。 そんな道をバスはどんどん東へと進んでいく。ムワンザを少し離れた所からは植生が変わってきた。木が疎らになり、砂埃が舞い始め、バスの中にも容赦なく入ってくる。とても目を開けていられない、全く水分のないドライエリアだ。その中にも、ぽつぽつと家が建っている。ウシを追う人達も見かける。この乾燥地で人は一体どうやって生きているのだろうかと不思議に思った。ビクトリア湖の南は、タンザニアの人口15%を占めるスクマ族のホームランドだ。ムワンザ、シニャンガ、シンギダの3州はスクマの土地と言われる。スクマ族は伝統的に、ウシやヤギ等の家畜を放牧しながら、焼畑農業でトウモロコシやモロコシを栽培する、いわゆる半農半牧を営んでいた。 スタッフのPauloもムワンザ生まれのスクマ族だ。彼の小さな頃、一族は先祖代々住んでいたムワンザを離れ移住した。理由を尋ねると、 「ムワンザの暮らしは大変だった。皆が木を切ってしまい、木が無いから、その日の料理の薪を拾いに行って帰ってくるだけで半日仕事だった。それから片道30分かけて水を汲みに行く。そんな生活はもう一杯で、一族でモロゴロのキロサに移り住んだ。キロサはコメも作れるし、森も多いし、なんて住み易い所なのか、と驚いたよ。」と言っていた。 我々のプロジェクトのメンバー農民、Mahewaさんもシニャンガの出身で、ダカワに移り住んできた。移住してきた理由を聞くと、 「シニャンガではお祖父さん、お父さんとウシを沢山飼っていた。だけど、近年の干ばつでウシに食べさせる草がなくなって、ウシが次々と死んだ。このままでは生きて行けないと思って、牛飼いに見切りをつけ、ダカワにやってきた。だから、今まで稲作をした事は無かった」と言っていた。 そんな話を思い出した。 ガタガタ道は続く。窓の外を見ていた。 シニャンガを通り過ぎ、シンギダの手前で、真っ白な光景が目に飛び込んできた。 白い砂が一面に広がり、木の生えていない、人もいない、何もない所だった。 本当に“砂漠”だ。衝撃的だった。 かつては人が住み、農業や放牧をしていた土地が、何故このように生産性のない土地になってしまったのだろうか。“砂漠化”は一般的に、気候変動に加え、人口増加に伴う過剰放牧、過剰耕作、薪等の伐採による森林の減少が主な要因と言われている。アフリカの大部分の土地では、人々は伝統的に焼畑農業を営んできた。ひとつの畑で数年耕作を続け、長期の休閑をおき、地力が回復してから再び耕作を始めるという方法だ。 しかし、近年の人口増加に伴い、食糧を増産する為に農地の休閑期間の短縮や、土地の地力が回復する前にその土地をまた使わざるをえなくなってしまった。地力の弱い土地で耕作を続ければ土の養分を全て吸収しつくし、生産性の無い荒地にしてしまう。 また、家畜の過放牧も砂漠化を助長する。放し飼いにされたウシやヤギは草や木の苗を全て食べつくす。タンザニアは1年が乾期と雨期に分かれているが、短い乾期の間に全ての雨が降る。つまり、作物の生育は雨期中のたった4ヶ月で、残りの8ヶ月間の乾期の間に作物の生育するスピードよりも早く動物に食べられてしまえば、植生はどんどん劣化してゆく。そして過放牧の背景には文化的・伝統的な要因も絡んでいる。最近の新聞記事によると、“Hunger Strike Meatu again, Tradition blamed”というタイトルで、Meatuというシニャンガの1地区では、農作物収穫直後のこの時期に既に深刻な食糧不足に陥っているそうだ。この地区に住む人々の社会は所持するウシの数が社会的地位を表すという。従って、人々は農作物を収穫すると、次の収穫までの食糧を貯蔵することなく全て売り払い、手に入れた金で新たに家畜を増やす。近年の干ばつにより、家畜のえさとなる草は枯れ、自然の牧草地が消えつつある。因みにこの地区で今年は約85万トンもの穀物とマメが不足だと報告されている。 土地に生産性が無くなると、人々はそこを捨て、また新たな場所へと移る。そこでも同じ事を繰り返す。それが少しずつ広まり砂漠化へと繋がるのだ。 アフリカ人は“移動の民”ともいわれる。小さな島国で暮らしてきた我々日本人は、先祖から受け継いだ農地を使い、毎年そこから収穫される作物で生活をしてきた。言うなれば、土地を守りながら生きてきたのだ。しかし、アフリカ人は違う。使っていた土地の生産性がなくなると、あっさりと見切りをつけて、別のより良い場所へと移るのだ。それは元々彼らのもつ狩猟採集文化の名残りなのではないだろうか。住んでいる土地に、食糧となる獲物や木の実などが少なくなると、それを求めて新たな場所に移動しなくてはならないからだ。しかしアフリカ大陸広しといえど、いつまでそんなライフスタイルを続けることができるだろう。 モロゴロはタンザニアの中でも最近人口が急増している州のひとつだ。ダカワ村も然り、初めて来た2年前よりも確実に人口は増えているし、沢山の家が建てられ始めている。先祖代々の土地を捨てより良い土地を求め、スクマ族だけでなくその他の民族がダカワには沢山移り住んできているのだ。マサイ族も数年前まではほとんどダカワにはいなかったが、今では沢山のマサイ族がダカワ村の周辺に住み、ウシやヤギの放し飼いをしている。雨期が明けたこの季節は、放牧されている家畜達が枯れ始めた草や木の葉を求め歩き回る。ウシ達は何度も同じ道を通り、踏み固められた土地には二度と草が生えなくなってしまう。それと同時に村の外れでは依然として炭焼きや薪のための木が次々と伐採されている。 今はまだ良い。薪にする木もあるし、ウシが食べる草も生えてくる。しかし、木が減れば、雨は降らなくなる。草や木は育たなくなり、放牧されたウシ達は草を根まで食べつくし、また別の場所に移動するだろう。雨が降らなくては、トウモロコシもコメも栽培できない。人々はダカワを捨て、新たな場所を求めて移動をする。そこには、真っ白な砂漠だけが残されるだろう。このままだと、シニャンガで見た光景がそう遠くない未来のダカワになってしまうのだろうか。 *写真はバスの中、シャニャンガの風景、ダカワで草を食べるウシたち # by fumika222 | 2006-09-04 07:58
アフリカは大陸だ。国同士が地続きだから、そこに道さえあればどこまででも陸路で移動が可能なのだ。それなりの町ならほとんど路線バスが走っている。別の言い方をすれば、飛行機は値段が高すぎるし、汽車は線路が通っていても運行していなかったりするから、アフリカ庶民の唯一の移動手段でもあるのだ。 バスは大抵イスズかSCANIAの中古が使われており、フロントガラスに行き先を書いた板がそっけなく置いてある。それを見て、自分の旅先のバスに乗り込むのだ。 アフリカのバスはとにかく故障が多い。車検などもちろん無いし、人やモノ、時には動物もぎゅうぎゅうに詰め込み、100km以上のスピードでデコボコだらけの道を飛ばす。故障したら修理工に頼むが、彼らのほとんどが基本的な機械の知識をもたないため、その場しのぎの修理はできるが、故障の元を直せない。だからまた直ぐに壊れる。その上、外国製の車の部品など、アフリカの地方に行ったら手に入るわけもない。すると、彼らは鉄くず等で部品らしきものを作ってしまったりするのだが、それが別の故障の原因になったりもするのだ。 ウガンダからタンザニアに戻る時のことだ。ウガンダのカンパラ発、ケニア経由、タンザニアのムワンザ行きのバスチケットを買った。ケニア・タンザニア・ウガンダの三国に囲まれ、世界第2位の規模を誇る淡水湖であるビクトリア湖の東側に沿って半周するようなルートになる。 バスはカンパラを夕方に出発する夜行だ。乗るバスは、出発直前まで修理工がバスの下にもぐってガチャガチャやっていたので、嫌な予感はしたのだが、大体そういう予感は当るのだ。バスは調子よく走り出し、国境を越え、無事ケニアに入国した。 夜の9時を回った頃だろうか、人々がウトウトし始めたところに、ディーゼルの匂いが車内に充満してきた。運転手はバスを路肩に寄せ、車掌と共にバスを降りた。何かパーツをいじっているようだ。車内に緊張感がただよう。簡単な故障なら数分で直るだろうが、重症だったらどうなるか分からない。夜は修理工を見つけるのも難しいし、次の町までも何十キロも離れている。ケニアのジャングルを切り開いたような道で一夜を過ごさねばならなくなるのかも知れない。 運転手が車内に戻ってきて一言。 「これは今すぐには直せない。」 そうなったら大騒ぎするアフリカ人。運転手に罵声を浴びせる者、分かりもしないのにパーツをいじってみる人、「それじゃあ、今日は何も食べずにこんなジャングルに寝ろってわけ?信じられないわ!」と怒り出すオバさん、これは仕方ない、と諦めて寝はじめる人、それぞれだ。 バスは車内灯も消されてしまった。寝ろという事だ。私もバスの座席に体を折り曲げ眠る体勢になった。しばらくすると、バスの後方で誰かがイビキを始めた。 「あれ?どうやらこのバスにはウシが乗っているようだな」と、冗談を言う人がいる。アフリカ人はどんな時もユーモアを忘れずに、その場を和ます才能がある。寝付けない人同士、暗い車内でおしゃべりを始める。お互い当然初対面のはずだが、話ははずみ、他の人も入る。バスが壊れたら、怒ったって仕方が無い。その場をいかに楽しくしようか、というのがアフリカ人の気質だ。 私もいつの間にか寝入ってしまっていた。突然車内灯が付き、まぶしくて目が覚めた。故障が治ったらしい。一番近くの町に携帯電話で連絡をし、修理工がきて直してくれていたそうだ。時計を見ると、午前4時前だった。バスが走り出すと、どこからか拍手が起こった。皆、ホッとした表情をしている。 アフリカ生活の長い、某専門家の言葉を思い出した。“アフリカの移動というのは、初めは怒り、そして諦め、最後には感謝だ”と。 アフリカではバスや飛行機の出発が遅れるなんて日常茶飯事だ。むしろ定時で出発すれば感動すら覚える。出発時間に合わせて行ってもそれから待たされる。すると「何だよー、こっちだって急いでいるのに」とイライラしてくる。しかし、何時間も待たされているうちにイライラが諦めに変わる。「ああ、もう今日はムリかもしれないなあ。」なんて思い始めた頃に出発のアナウンスが流れたりするのだ。そうすると、どんなに待たされようが、「今日中に出発してくれるのね、どうもありがとう。」と、いつの間にか感謝の気持ちになっているのだ。 目的地のムワンザには昼の2時に着いた。予定到着時刻の4時間遅れですんだ。 ムワンザの町に入り、宿も決め、旅の疲れを吹き飛ばそうと、ビクトリア湖の見えるレストランに入り冷えたビールを注文した。すると、ウエイトレスは生ぬるいビールを持ってきた。 「冷えたビールが飲みたいなあ」と言うと、 「Balidi Hamuna(冷たいのないよ)」と言う。 タンザニアでは冷えたビールが体に悪いとして、あえて常温ビールを飲む人が多い。それでも、冷たいビールでスカッとしたい時に、ぬるいビールしかない時のショックはでかい。 ビクトリア湖に傾き始めた太陽を肴に生ぬるいビールを飲みながら、タンザニアに戻ってきたことをしみじみと実感した。 # by fumika222 | 2006-09-01 22:30
NERICA、とは、New Rice for Africaの略で、Ivory CoastにあるWARDA(西アフリカ稲作開発協会)が開発した米のことである。“アフリカの農業革命”、“奇跡のコメ”と呼ばれるほどの優れた特徴を数多く持ち、国連ではアフリカでの「貧困対策と食糧安全保障の切り札」として、大きな期待を寄せている。アフリカでの米の開発は90年代からと、アジアと比べると案外歴史は浅い。NERICAの何が凄いのかと言えば、今までに絶対不可能だとされていた、乾燥や病害虫に強いアフリカ種(グラベリマ種)と、収穫量の多いアジア種(サティバ種)の異種間交雑から生まれた陸稲種だという事だ。 つまり潅漑を必ずしも必要とせず、施肥・農薬が少なくて済むという特長をもつ。最近、日本政府もNERICA開発に期待を持っており、大きな資金援助を決定した。 NERICAは西アフリカで研究されている為、西では既にかなり広く栽培されているが、東アフリカではこれからなのだ。その、東の拠点がウガンダにあり、東アフリカへのNERICA普及を一挙に担当するJICAの専門家がおられるそうだ。現在JICAウガンダにいる協力隊同期の配慮のお陰で、その東アフリカNERICAの総本山を見学させて頂ける事になった。 NERICA専門家のTさんが活動されているナムロンゲ試験場は、首都カンパラから車で1時間弱、舗装道からしばらくダートを走ったところにある。ウガンダは、1)国策としてネリカ米を含む陸稲振興を推進していること、2)コメの消費が増えつつあること、3)降雨・土壌に恵まれ二期作が可能であること、4)地下水位が浅いこと等、ネリカ米普及のための条件が揃っている、という理由により東アフリカの拠点として選ばれたそうだ。 T専門家御自身は、元々アジアの米の開発、普及に携わられていた。近年、NERICAの研究が始まったことで、活動を西アフリカに移されたそうだ。そして、現在はウガンダを拠点に東アフリカへNERICA米の普及を中心に活躍されている、という超実力派だ。 まるでアフリカにいる事を忘れさせられるような、緑の多いナムロンゲ試験場に着き、一通りの説明をして頂いた後、実際に試験場を見学させてもらった。現在、約20品種の栽培試験を行っており、また、施肥量、土壌水分量、播種法などの条件を変えたトライアルがされている。 “NERICA”といっても一品種だけではない。アジアに食糧革命をもたらした、といわれるIR-系統のように、NERICAにも系統があり、微妙に栽培条件や米の味などが変わってくる。 アフリカには食糧がないから、とにかく沢山採れる品種でいいじゃないか、と言う考えは間違っている。アフリカ人の味覚はデリケートで、味の悪い米は、いくら収量が多くても受け入れられない。 国際協力関係者が最も気をつけるべきポイントのひとつとして、“新しい研究や技術は本当に現場に定着するのか”である。そうでなくては、いかにすばらしい研究であってもそれは研究でしかない。既存のモノよりも優れたものであると認められて、はじめて現場で受け入れられるのだ。 NERICAの品種研究ではいくつかの有望系統が育成され、主に次のような形質を備えている。 ①生育日数が在来種の130~140日に対し、90~110日である。 ②低投入の天水畑条件化で50%の増収が得られた。 ③雑草との競合性が強く、除草作業時間の短縮につながる。 ④病害虫の耐性がある。 WARDAよりこれらの特性をもったいくつかの推奨系統が送られてくるため、この試験場で試験栽培し、ウガンダの土地、気候、人々の嗜好にあった系統を選抜し、農家対しに普及をしている。 T専門家によると、NERICAは陸稲、つまり、水をあまり必要としなくとも育つ稲だ。しかし、稲は稲、全く土壌水分がなくては成長しないし、実も入らない。そこで、どの程度の土壌水分が必要なのか、一定期間おきに量を変えたかん水をする事で、土壌水分量における成長限界の試験を行い、具体的な数値を出していた。 ウガンダでは米の二期作が可能だ。しかし、雨量は年間を通じて安定しているわけではない。1年に2度大きく降るが、それ以外の時期の雨量は多くはない。陸稲といえども、土壌中に水分が全くないより多少の水分がある方が実の入りが良い。そこで、NERICAの成長に必要な最低水分量を割り出すことができれば、今までの降雨データを元に、稲が最も水分を必要とする時期から逆算して播種日を決めることができる。理論的に農民に指導する事で、NERICAはウガンダ農民に受け入れられつつあるようだ。 批判的な意見としてNERICAは多くの化学肥料を必要とするが、農民レベルではとても化学肥料を購入することはできない。つまり、アフリカ農民のレベルに合っていないのではないか、と言う話を聞いたことがあった。しかし、T専門家の考え方は、施肥量云々より、農家がある広さの土地をもっていたとすれば、比較的土壌水分の多い場所にはコメを、高いところにはメイズやバナナを植える。コメは一般農家で大規模に栽培はできないが、換金性が高い。少しの現金収入源にしたり、お祝いの日に食べたりすれば良いのではないか。ひとつの畑で、トウモロコシなどと同じように、無施肥で休閑地を作るなり、少しの有機物を投入して栽培してもらえたらいい、とおっしゃっていた。これは現地農民に受け入れられる考え方だと思う。 また、T専門家は、東アフリカ各国におけるNERICAの栽培適地の地図を見せてくれた。驚くことに、干ばつの広がるエチオピアや、乾燥地で絶対に稲作が不可能と思われていたジンバブウェにもNERICAの栽培適地があり、また、T専門家ご自身がエチオピアに出かけて行ったり、ジンバブウェの農業関係の役人に種を分けたりしているそうだ。 また、現在、ウガンダでは隣国スーダンの長びく内戦のために難民を受け入れている。その難民教育の一環として、UNHCRと手を組み、難民に対するNERICA栽培指導プログラムを行われたそうだ。祖国へ帰る難民に、NERICAの種もみを土産に持たせてあげると、彼らは戻ったら必ずNERICAを栽培する。コメが実ったら是非、実に来て欲しい(それは不可能のなのだが)、と言って喜んで帰っていったそうだ。 T専門家は、稲作で最も大切な事は“品種”だとおっしゃる。確かにそうかもしれない。 そこで、タンザニアの現場の事を考えた。もし、我々が去年の作付けでNERICAを使っていれば、2月の干ばつで稲は全滅しなかったかもしれない。また、栽培期間が短いから、雨が上がる前に収穫が出来たかもしれない。3月に播きなおした種は、土壌水分が足らず、一部穂を出さずに枯れてしまった。そういった稲は収穫まで持ちこたえたかもしれない。 我々は今、ダカワで“耕種方法”にポイントを置いた稲作の指導をしている。しかし、天水に頼る、という、リスキーな稲作を続けるためには、より栽培条件に適した品種の導入も考えるべきだろう。より良い耕種方法と、最適品種の組み合わせで、天水に頼る稲作は多くの実を結ぶ事になるかもしれない。そう考えるととても嬉しくなった。 目下のNERICAの課題は、天水低湿地帯でも栽培のできる系統の開発だそうだ。アフリカの農業開発で注目されているテーマのひとつに、“低湿地帯の有効利用”が挙げられる。サハラ以南アフリカには8500万haもの低地があるという。低湿地帯は常に土壌水分を含んでおり、主食のトウモロコシやミレットは乾燥地を好むため、栽培できない。しかし、水稲を栽培するには水分が足りない、そんな訳でアフリカの低湿地帯は“使えない土地”、“生産性のない土地”の代名詞が付いてしまった。アフリカ農業の難しさは、“水がない”のではなく、“水のある土地の有効利用”と言えるかもしれない。そこに、水田を開発し、天水低湿地帯でも栽培可能なNERICA種が登場すれば、アフリカの食糧増産に大きく寄与することは間違えないだろう。 T専門家は、「是非これをタンザニアに広めてください」と、現在推進している2系統のNERICAの種もみを分けてくださった。すばらしいお土産だ、ダカワ農民達の喜ぶ顔が目に浮かんだ。その上、T専門家自らが作られる“NERICA3級”という立派な認定証まで頂いてしまった。3級とは、NERICAに興味と理解を示した事を認められたということで、それがNERICAを試食したり、栽培したりすると序々にランクが上がり、最高は特級まであるそうだ。一般的に専門家さん達の業務は難しそうで、入り込めない雰囲気があるのだが、このような形で日本人の興味を引き、NERICAに対する理解を広めておられるという。T専門家の器の大きさをしみじみと感じさせられた。T専門家はお忙しい中、この日は私達だけのために試験場の案内、活動の説明に半日も費やして下さったお陰で、NERICAの素顔を見る事ができた。大きな収穫だった。 最後に、T専門家、本当にどうもありがとうございました。今後もアフリカ中のNERICAの普及と益々のご活躍を祈念いたします。 また、色々とアレンジをしてくれた同期のHさんにも感謝!! *参考文献・・・長田明夫氏「半世紀にわたる日本の稲作技術協力史」(農林統計協会) # by fumika222 | 2006-08-30 22:13
世界中には赤道の通る国が10カ国ある。ウガンダはそのうちのひとつだ。アフリカでは他にソマリア、ケニア、両コンゴ、ガボンに赤道が通っている。一度赤道に行ってみたかった。首都カンパラから南西に約80kmのところに赤道はあるらしい。“ボダ”と呼ばれるバイクタクシーで行くことにした。 何故だか分からないのだが、ウガンダには車が多い。大概、アフリカの他の国でも首都では車が沢山走っていていも、首都を少し離れると車の数がグッと減るものだ。それが、郊外に出ても車の往来が激しい。そこをバイクで通り抜けるから、かなりスリリングだ。片道2時間かけてやっと着いた。 着いた村は普通の村だった。そこに赤道というマークがあるだけだ。しかし、“赤道”も概念的なものだから、そこに住んでいた人達は意識する事もなかっただろう。 赤道は北極と南極から丁度9640km離れた線で、赤道の北側では水を高い所から落とすと時計回りに流れ、南側では反時計回りに流れる。それが、赤道上ではまっすぐに落下する。地軸のせいなのだろうか?? 赤道の上に立ってみた。あー、ここは地球の真ん中なのか、と思った。だけど何も感じなかった。 # by fumika222 | 2006-08-28 21:49
“Peal Of Africa”、アフリカの真珠と言う別称をもつウガンダは、アフリカで最も美しい国のひとつとされている。世界最長の大河、ナイル川の源流の流れる国で、世界中で生存の確認されているマウンテンゴリラの半数以上がウガンダの山奥に生存している。アフリカの国でも珍しく、食糧を自国で賄い、余剰分を輸出までしている。そして、現在注目されているNERICA(New Rice for Africa)の東アフリカの拠点がウガンダにあるのだ。
NERICAに関しては、色々な角度から取り沙汰されている。アフリカの稲作に携わるはしくれとして、いつかその現場を見、また現場で活動されている方の話を直接伺いたいと思っていた。 協力隊訓練所時代の同期が丁度JICAウガンダ事務所にいる。行くなら今、と思い、同期を頼ってウガンダへの旅を決めた。 ウガンダへはバスで行くことにした。安いし、沢山の景色が見れる。モロゴロを朝6時に出発し、ケニアのナイロビでバスを乗り換え、ウガンダの首都カンパラには翌日の昼過ぎに到着した。ざっと30時間、アフリカはやはり広い。 30時間の旅も、窓の外に広がる風景は次々と変わり、飽きることはない。タンザニアの北、キリマンジャロ山の麓のモシという町からケニア国境までは約100km。その地帯は、木がほとんど生えず、一見誰も住んでいないような砂漠のような大地なのに、時々マサイとそのウシが砂嵐の中から姿を現す。こんな厳しい環境で放牧をしている彼らの生活とは一体どういうものなのだろう。東アフリカ、というときはふつう、ケニア・ウガンダ・タンザニアの3国を指す。ケニア・ウガンダは19世紀末からイギリスの植民地となり、タンザニアは19世紀末、ドイツ領となるが、第一次世界大戦後にイギリス領となった。三国とも1960年代に相次いで独立をした、という、似た歴史をもつ。 東アフリカでは英語とスワヒリ語が共通語とされているが、タンザニアではスワヒリ語が良く使われ、英語はあまり通じない。ケニア・ウガンダでは英語を話す人が多い。タンザニアでは町の看板等全てスワヒリ語で書かれているが、ケニア・ウガンダではそれが全て英語表記、と言うほど庶民にも英語は浸透している。また、東アフリカの国籍保持者は、パスポートなしにこの三国を行き来できるのだ。考えてみれば、“アフリカの国境”は、19世紀末にアフリカ大陸を“発見”したヨーロッパ人が勝手に線引きしただけで、元々この土地に住む彼らにとっては国境線など必要のないものなのだろう。1884年のベルリン会議で、欧州列強がアフリカの国境線の分割について話し合った。当時の英領ケニアには、雪をかぶった美しい山が3つあったが、タンザニアには山がなかった。そこで、当時のタンザニアの宗主国、ドイツがイギリスに「雪山をひとつ分けてほしい」ともちかけ、キリマンジャロ山がドイツ領タンガニーカ(現タンザニア)に譲与されたのは有名な話だ。だから、今もケニア―タンザニア国境は、キリマンジャロ山を隔てて不細工に曲がっている。 そしてバスはウガンダに入国した。赤土に覆われた大地に木々は多く、うっそうとしていて、まるで熱帯雨林を切り開いたような場所さえある。民家の周りにはバナナが沢山植えられ、トウモロコシやイモはどこにでも植わっている。水を湛えた沼は使われることなく、葦のような植物がはびこっている。 ウガンダは年間を通して雨が降り、そのうち年に2回、大きな雨が降る。つまり、天水を頼りに、一年中作物を栽培することができるのだ。近年のアフリカの代名詞となっているような“砂漠化”や“干ばつ”、“食糧不足”という言葉はほど遠い。雨と水の偉大さを感じた。ふと、モシからケニア国境の砂漠が脳裏をかすめた。地図上ではそれ程離れていないこの二つの地点の環境は実際にこんなにも異なる。 バナナばかりの景色を見ていると、隣に座っていたザンビア人の男の子が「これがナイル川だよ」と言った。 窓の外にはゆったりと、壮大なナイル河が流れていた。 この国の豊かさは、このナイル河の恩恵なのだろう。川沿いにできる森、その森が雲を呼び、雨を降らす。年中降り続く雨は土地を肥やし、作物の実りを約束してくれる。 そう考えていたら、バスはいつの間にか緑の多いカンパラ市内に入っていた。ウガンダは赤道直下の国だ。しかし、カンパラは標高が1100mほどあるため、思ったほど暑くはない。宿を決め、荷物を置いてから屋上のレストランへ行った。まずは、無事到着を祝って、この国のビール、“Nile Special”を頼んだ。よく冷えていてクセがなく、さっぱりしていて美味しい。しかし、アルコールは5.5%と少し高めだ。長旅の疲れが一気に吹っ飛んだ。そして食べ物を注文した。 この国の主食はマトケ、プランテーン・バナナを煮て潰したものだ。タンザニアでもプランテーンのバナナは食べられるが、ウガンダのは黄色く、タンザニアのものよりホクホクしている感じがした。付け合せの煮豆ともよく合って、とっても美味しい。この周辺各国はどこに行っても“トウモロコシ粉を湯で練ったもの”だが、ウガンダのマトケは上品な(?)味がした。従業員も気さくで(タンザニアより)、色々と話しかけてきた。そして夕方までしばらく昼寝をした。 ウガンダの第一印象は120点だ。 * 写真は、上から、ケニア―タンザニア国境、ナイル河、カンパラ郊外、マトケランチ。 # by fumika222 | 2006-08-24 21:26
家にいるだけで、沢山の人達が行商にやってくる。毎朝、日が昇る前から、マサイが自転車にタンクをくくりつけて牛乳を計り売りする。村人はそれを買って、毎朝絞りたての牛乳でミルクティを沸かして飲む。1日中、家の前には沢山の物売りが通るトウモロコシ、マメ、バナナ、野菜等の食料品から、洋服、ナベ、植木の苗までも商人は肩に担いだり、自転車に乗せたりして売り歩く。 行商人達は、「マハラ~グェ、マハラ~グェ(マメ)」と、独特のテンポで叫びながら村中をねり歩く。そこで、欲しい物が通りかかった時に彼らを呼び止めれば良いのだ。 何度も同じ人から買っていると、顔馴染みになって、村の出来事や世間話をしたりする。おまけだってしてくれる。この日は野菜売りのおじさんから野菜を買うことにした。 「Habari za kazi?(仕事の調子はどう?)」と聞くと、 「Sio nzuri(あまり良くないね)」と言う。 何故かと尋ねると、近頃、雨期が明けたら、川の氾濫源で沢山の人達が野菜を育て始めた。生産量が過剰になり、野菜の値段が下がって、もうけが少なくなってしまったそうだ。確かに最近は市場にも沢山の野菜が並ぶようになったし、値段も安い。 「以前は、市場の売り子達が家まで野菜を買いに来ていたのに、今じゃ自分で売り歩かなくてはならない。野菜は待っていてくれないからね」と苦笑した。 自転車に積まれたカゴの中にはトマト、ピーマン、ムチチャ(ホウレン草)、オクラ、白ナスが合った。1日で食べる分、両手一杯にオクラ、白ナス、トマトを買って150sh(15円)。 やっぱりもうけは少ないなあ。 # by fumika222 | 2006-08-21 20:57
ある日の夕方、沼地で子供達がワイワイはしゃいでいた。「何してるのー?」と聞くと、 「サカナを捕まえてるんだよー」と返ってきた。 この辺りは低地なため、雨期になると高い所から流れてくる水が溜まる。その水を利用して村人は稲を育てているのだが、深いところは雨期が明けても水が干上がるまでしばらくは沼のような状態になる。雨期に流れてくる水は、川のはんらん水を含んでおり、川に生息するサカナの卵や稚魚も一緒に流れてくる。それがこの沼にたどり着き、小動物なんかをエサにしながら育つのだ。乾期に入り、その水が干上がる前にサカナを捕まえなくてはならない。 村人達は、どこにサカナがいるのかを良く知っている。子供達は魚捕り網の代わりに古くなった蚊帳を使ってドロドロになりながらサカナを捕っていた。 「本当にサカナがいるの?」と聞くと、「いるよ。ほら、見て!」と、体長5cmほどのフナのようなサカナを見せてくれた。 他にもシラウオのような小さなサカナを沢山捕まえては、ペットボトルに詰め込んでいる。 「このサカナ、どうするの?」と聞くと、 「夜、おかあさんに料理してもらうの。サカナを捕まえて帰ると、おかあさん喜ぶんだよ。」と、可愛い笑顔で答えてくれた。 # by fumika222 | 2006-08-20 21:00
かつて、アフリカは“ゴミのない大陸”と言われた。工業製品が少なかったのが1つの大きな原因だろうが、使えなくなったものを再利用する、いわば“リサイクル技術”が発達しているのだ。 確かにそうだと思う。車の廃タイヤはサンダルに加工され、廃チューブは細く切って、自転車やバイクの荷台に荷物をくくりつけるロープになる(これがよく伸びて、丁度いい)。買い物に行ったときなどに品物を入れてくれる薄っぺらいビニル袋は、炭に火を着ける際の着火剤代わりに上手く使われていたのには驚いた。壊れた自転車のスポークには牛肉が刺され焼肉の串となる。 アフリカに“ゴミ箱”はない。人々は不用になった物をそこいらに投げ捨てる。 これは昔からの生活の名残だろう。少し前まで、アフリカの農村は外部からの物に頼らない生活をしていた。全て、自分達の手で生産した物、つまり、オーガニックな生活をしていたのだ。有機物は、そこらへんに捨てられても時間が経てば分解され土に還り、野菜クズなどは、家の周りに放し飼いにされてるニワトリやヤギが勝手に処理してくれる。 それが、近年の経済自由化と共に、外から沢山のモノが入ってきた。“ゴミを処理する”という感覚を持たない彼らは、それが土に還るものであろうとなかろうと処理の仕方が分からずに、そこいらに放る。長距離バスに乗っていると、乗客達は飲み終えたジュースのプラスチック容器、ゆで卵の殻、ビスケットの梱包紙、バナナの皮、不要な物は何でもかんでも窓から外にポイポイ放り投げる。親がそうするように、子供はそれをマネする。水の容器やプラスチックの袋は、分解されずにずっと道ばたに残る。今やダルエスサラームなんてゴミだらけだ。こういうところに、アフリカの急速な近代化と、それについて行けない人々の生活のギャップを垣間見るような気がする。 都市部や村の中心部など人の集まる場所では、人々はゴミを一ヶ所に集める。しかし、集まったゴミは処理されずにどんどん山積みになり、ハエやウジ虫やゴキブリやネズミの発生源となり、赤痢やコレラ等伝染病の原因となる。特に雨期中は周辺住民の衛星状態は確実に悪化する。 ゴミ処理の管理はタンザニア政府もしくは地方自治体の管轄であろう。しかし、対外債務が何億ドルもある国に、ゴミ処理のための施設を敷設する余裕はないのが現実だ。しかし、1人ひとりがゴミをそこらに捨てない努力、個人レベルで少しでもゴミを処理する事は可能だろう。“ゴミはゴミ箱に”、それは教育の上に成り立った常識なのだ。これまでのゴミの捨て方を見直す、という機会が作られれば、人々の感覚は少しずつ変わってゆくかもしれない。 *ダカワの道端。自然分解されないプラスチックだけがいつまでも残る。 # by fumika222 | 2006-08-16 20:53
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